四〇代筋ジストロフィー当事者メリアンが、車いすで色んな所に行くブログ。
VoteShowの公演が終わり、日常が舞い戻る。上司とは相変わらず反りが合わないし、ノルマは今月もヤバイし、後回しにしてきた仕事がツケとなって襲いかかってくる。クタクタの身体でそれらを必死にこなし、この頃は残業もできないので、這々の体で帰途につく。生計を立てるため、やむを得ず就いた仕事だが、なんだかんだで10年以上続いている。かつて厭わしく思っていた仕事だが、公演を終えてみると、なぜだか妙に愛おしく感じた。

帰宅して風呂に浸かり「なぜあんなことしたんだろう…」と呟いたとき、これまでの出来事が走馬灯のように頭を過ぎった。それらを回顧するうちに、どうしても言語化できなかった、ある「正体」を、ついに捉えるに至った。

その「正体」とは、すなわち私が舞台に立とうとする動機である。

私は日常的に杖を使う。筋肉が徐々に衰える筋ジストロフィーという難病のためである。そして、この難病の予後を私はある程度予見できている。いつか、少しずつ色々なことが、できにくくなってゆくだろう、と。

今の仕事に就いた理由のひとつでもあるのだから、かれこれ10年以上の付き合いとなる。もしかしたら20年近いかもしれない。私にとって地球の重力は健常者の比でないほどに重い。呪いのようなものだ。その呪いに名前がつき、身体障害者4級というお墨付きを得たのが大学を卒業して、しばらく経った頃だった。

大学生の頃、私はスキーヤーだった。シーズン中はスキー宿に泊まり込み、働きながら滑った。白馬岩岳というスキー場がホームで、滑走中にホワイトアウトに遭遇したり、樹氷の間をゆーったりと滑ったり、朝一番の誰もいないゲレンデにシュプールを描いたりした。かつて雪山で見たあの鮮烈な光景は今でも忘れられない。

病気が発覚して以降、しばらく闇雲に資格の勉強をしながら、その実ニートのような生活を続け、それから障害者として生きようと腹を括り、今の会社に就職した。ポエトリーリーディングの世界に足を踏み入れたのもその頃だった。過去の未練、現状に対する不満、将来への不安、どんな方法でもいいから、そんな胸の内を吐き出したかった。私が初めて舞台に立ったのは渋谷PLUGというライブハウスで催された開口一番というオープンマイクイベント。5分間の持ち時間を与えられ、ステージ上のマイクに向かって歌でも詩でも漫談でも何をしても良い、という趣旨のものだった。

はっきり言って取るに足らないパフォーマンスだった。ただ仕事の愚痴をシャウトしているだけなのだから。でも、そんなパフォーマンスを開口一番は温かく受け入れてくれた。そこから谷川俊太郎や宮沢賢治や吉本隆明の詩集を読み、少しずつオリジナルの詩や物語を書くようにもなり、ポエトリーリーディングの世界に触れるようになった。

メリーアンドリュー(道化師)という名前をつけたのはその頃で、社会に対しておもねったり、へつらったりする己を卑下する意味合いでつけたものだった。

開口一番で即興芝居のパフォーマンスをする方がいて、それが、のんべさんこと蔵重智さんだった。インプロバイザーとの初めての出会い。「へー、こんな表現もあるのか」というのが第一印象で、詩の朗読よりも動的だったので、足が悪くても少し汗ばむくらいの運動になりそうだな、という感想を抱いた。頭の片隅でインプロの存在を気にしつつ、開口一番に出演するうちに、もうひとりのインプロバイザー、Platformのみくみんと出会う。

彼女のつてで、荻窪にあるBUNGAというライブバーに通い始めた。インプロパークのすぅさんこと、鈴木聡之が主催する「即響BUNGA」が私のインプロのホームとなった。インプロゲーム、イエスアンド、キースジョンストン、ロングフォーム……。ちゃんと理解できているかと言われると怪しいけれど、そういう事柄に触れ、実際に何度かショーにも出演した。私にとって舞台に立つことは、言うなれば仲間内の発表会だった。それでひとからお金を貰おうだとか、それで人気者になろうなどとは思わなかった。ただただ純粋に楽しいから、というのがその頃の、私の動機だった。

インプロとポエトリーリーディングの界隈を行き来しつつ、何かにつけて舞い込むフライヤーを元に小劇場にも足を運ぶようになった。そのような中で「東京ディスティニーランド」さんの芝居と出会う。女装家の一人芝居役者で、彼(彼女?)の芝居を目の当たりにしたとき、頭をバットで殴られるくらいの衝撃を受けた。

記憶は曖昧だが、シェイクスピアにサブカルの小ネタを盛り込んだ悲劇だった気がする。ラストシーン、それは鮮烈な死だった。ステージ上、スポットライトの中で息絶える役者。その光景を目の当たりにして、思わずこう思ってしまった。

私もあんな風に死にたい、と。

日常は鬱々としていた。日々、ふつふつと湧き上がる希死念慮に折り合いをつけることに苦慮していた。とはいうものの自殺を計画し、実行するつもりなど毛頭なく、ただそれはうだつのあがらない己に対する当てこすりであり、いわば自己愛の裏返しのようなものだった。そうして後進に先を越されたり、愛を諦めることにすっかり慣れてしまった頃、「死」は何よりもの救いとして私の目に映った。



仮面をつけて演じるインプロがある。仮面インプロとか、マスク・インプロというそうで、たまたまワークショップに参加する機会を得た。仮面をつけて、胸の内から沸き起こる喜怒哀楽に従って、ノンバーバルコミュニケーションを用いて、参加者同士でじゃれ合うといったもの。傍から見たら幼稚園児のお遊戯で、正直なところ甘く見ていた。しかし実際にマスクをつけてやってみると、次第に熱を帯びてゆき、いつの間にか夢中になってしまった。マスクをつけて感情に身も心も委ねると、健常者よりも重く感じる重力を忘れることができた。

ワークを終えて仮面を外したとき、今までと違う自分になれた気がした。

それからというもの仮面インプロのワークで得た「今までと違う自分」が、実生活に影を落とすようになった。心のどこかで、もう一度あの熱情に浮かれたいという思いが強くなった。今思い返してみると「UDATSUわくわくドイツゲーム実況プレイ」に参加した理由も、ゲーム実況に興味があったというよりはゲーム実況を通じて死に物狂いになりたかったから、というのがしっくり来る。

その思いの行き着く先は「東京ディスティニーランド」さんが見せてくれた、あの鮮烈な「死」の光景だった。あんな風にステージ上でスポットライトを浴びながら死ぬことができたら、さぞや爽快だろうな、と。

それからというもの、ポエトリーリーディング界隈へは足が遠のいていった。たぶん、煩わしかったのだと思う。ポエトリーリーディングにおいて「死」は、決して軽く扱われるべきテーマではない。その重さをいちいち実感したくなかった。



うだわくの途中からボードゲームを作り始めた。うだわくが終わっても作り続けた。2014年、メリーアンドリューワークスという個人サークルを立ち上げ、今度はボードゲームの世界に足を踏み入れた。

燃え残っていたのだ。ポエトリーリーディング時代の、もの作りにかける情熱が。今年で7年になる。7年作り続け、大まかにボードゲーム作りのイロハが理解できるようになった。そして理解が深まれば深まるほど、トップを走り続けるデザイナーとその後を追うことしかできないデザイナーの差を痛感するようになった。私の作品は所詮、トップデザイナーの編み出したギミックを流用し、フレーバーを載せ替えただけの二番煎じに過ぎない。レベルデザインが甘く、いまいち盛り上がりに欠ける、凡庸なゲームを作り続けることしかできない。

にもかかわらず、理想と現実を埋め合わせるためにかかるコストは、作れば作るほど嵩んでゆく。そうして最新作「アストロニカ」を作り終えたとき、ゲームデザイナーとしての私はついに身動きが取れなくなってしまった。立ちはだかる見えない壁と、在庫の詰まった段ボール箱の山に挟まれて。

ここでも、だ。振り返るまいと思っていても「いつか」は音もなく忍び寄り、気がつく頃には背後に迫り、肩を叩く。そう、ボードゲーム製作もまた、ひとつの呪いだったのだ。

時々、思うことがある。私は一体何を必死に頑張っているのだろう、と。もっと気を楽にして、ゲームをしたり、恋をしたり、人生を楽しめば良いじゃないか、と。

よく「あなたのひたむきな姿勢は、ひとを勇気づけるだろう」と聞く。障害者だから頑張っているのだろうか。それが理由で舞台に立とうとしているのだろうか。違う気がする。では自らの手で「いつか」に引導を渡したいからだろうか。それが理由で舞台に立とうとしているのだろうか。それも違う気がする。

理由はもっと馬鹿げている。私がステージ上のスポットライトの中で死ぬには、舞台に上がるための役が必要なのだ。悲劇のヒーロー? 否。私はヒーローよりもヴィランが好きだ。ヴィランはヒーローに倒されるものだ。私はヒーローに打ち倒されるヴィランのように死にたかった。虫けらのように、ゴミくずのように。

だから私は舞台に立とうとした。

私はVoteShowで草迷宮ひろむという役を演じた。売れない作家で、頭の中に懇々と湧き出でるアイディアの泉が欲しいと願った。この草迷宮ひろむという役は、私自身だ。ボードゲーム製作に行き詰まり、病気の進行に怯え、それでもまともに生きたいと思う一心でデスゲームに参加した。私は稽古を重ねるうちに、この男に死んでもらおうと思うようになった。

かくして私による草迷宮ひろむ殺しは決行された。

結果は惨憺たるものだった。演出家の意図を無視し、共演者を困らせ、会場に混乱を招いたのだから。インプロでもなんでもないただの暴走。言うなれば公演の私物化であり、ルールからの逸脱だった。

公演が終わり、慌ただしく原状復帰が行われれる中に私はいた。フロアの片隅にうずくまり、当然のように生きていた。

「……なんか、疲れちゃったな」

現実を取り戻しつつある風景を眺めながら、そう呟くと、ふと胸に去来する思いがあった。それは一抹の寂しさだった。その思いに呼応するかのように、私が舞台に立とうとした動機、必死になって今日まで頑張ってきた正体が、徐々に姿を現したのだった。

それは怒りだった。

怒りこそが私をここまで頑張らせた。私を舞台に向かわせたのだ。あの日、仮面インプロによって生じた「今までと違う自分」は、己の「怒り」が顕在化した徴だったのだろう。「怒り」は我を忘れさせる程の熱情の対価に、「死」を要求した。私は熱情を得る代わりに、自らを「死」へと追いやった。「死」はリセットだ。リセットされることで「怒り」は永遠に私の中に宿り続ける。

「そうか、私は怒っていたのか」

己の本当の気持ちに気づくと、私の中の舞台に立とうとする動機が消えていった。VoteShowはデスゲームだ。負けたプレイヤーには死が待っている。私は草迷宮ひろむを演じ、わざとゲームに負けるような芝居をした。私はVoteShowで彼にさよならを告げたかったのだ。そんな身勝手な欲望に周りを付合わせてしまい共演者、スタッフ、そして来場したお客様に心から申し訳ないと思う。

・筋ジスの進行に「怯え」、それを怒りに転化し、血路を開こうとする自分に。
・「怒り」の熱情に身を委ね、「死」と引き換えに、忘我に甘んじていたい自分に。
・「死」を是とし、これを無闇に振りかざていた自分に。

今こそ、さよならを告げよう。「怯え」「怒り」「死」の円環から脱しよう。それは、もしかしたら寂しいことなのかもしれない。だが、その寂しさを受け入れて前に進もうと思う。そう思えばこそ、まだ見ぬ明日に、どんな自分が待っているのか楽しみで仕方がない。

さよならは別れの言葉じゃなくて、また逢うための約束という。
草迷宮ひろむにも、またきっとどこかで逢えるだろう。

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